西下外語教室

日本語を母国語とする学習者の立場に立って、外国語取得のコツを伝授しつつ
徹底的に指導いたします!

2006/03/21

珍獣、人民飛機服務員に手を出す

Народ смотрит на насの話

 昨年開催された愛知万博に先立つこと30数年前、大阪万博の年のことである。当時、ある会社でソ連(現在のロシア)との貿易の仕事に従事していた私は、初めての海外出張でシベリア極東部の都市ハバロフスクへ行くことになった。
 大学卒業から3年ほど経った頃で適当に会社の仕事にも慣れ、ロシア語も国内で必要とする程度は使っていた。しかし実戦経験は乏しい上に、何しろ若かった。
 未だにその傾向があるようだが、少なくても私は決してまじめ・勤勉なタイプではなく、その反対のヤンチャでオッチョコチョイという行動体系を持っている。本来なら学校や入社後身に着けた多少のキャリアを駆使・発揮してハリキルべきなのだが、実際には開放感と好奇心のとりこになり、本当のところ仕事は殆どソッチノケで海外生活を楽しんだわけだ。
 当時まだ日本とハバロフスクを直行で結ぶ定期航空便はなかたのだが、大阪万博来場にソ連国内からやシベリア経由で来日する欧州人客などのために会場に近い大阪(伊丹)空港へ特別のチャーター便を就航させていた。その帰りの便を利用して目的地のハバロフスクへ向かったのである。
 まず、オッチョコチョイの性格が頭をもたげ、機内で担当のロシア人スチュアーデス(今ではキャビン・アテンダントと呼ぶ)に手を出してしまい、しかし驚いたことに現地でのデートの約束にまでこぎついた。
 珍獣がそんなにモテる訳はないのだが、当時のソ連では西欧を含め日本人に対して潜在的にある種のアコガレを持っていた。それになんといっても若かった(?)
 現在の珍獣からは想像もつかないだろうが、時には同嬢の親戚のアパートに招待され、町の花屋で5ルーブル(3000円ぐらいに相当)出して花束を買って進呈、おじさんに当たる人物がアムール川(中国名「黒竜江」)で釣ったコイのバター炒めの手料理を楽しむという幸せなひと時を味わい、やや誇張していえばロマンチックな映画の一場面のような思い出もある。
 また、仕事場である見本市の会場へ先方から訪ねてきたこともあった。
 こうして交際が親密度を増し、終に二人でデートということに...

表題のロシア語はその時のことである。この文章そのものは、極めて初歩のロシア語学習者にも容易に理解できるが、ここでロシア語になじみの無い方のため一通りの基本的説明をしておく。

Народ смотрит на нас(ナロート・スモートリト・ナ・ナス:不本意ながら便宜的にカナで発音を記す)

は、「人民が私たちを見ている」となる。

もう少し細かく解説すると、

народ(ナロート)は不特定多数の人の集合体で英語で言えばpeopleにあたる。

смотрит(スモートリト)は「見る」という意味の動詞смотреть(スマトリェーチ)の3人称単数現在形。

на(ナ)は「~の上に」という意味で多く使われ場所をあらわす前置詞。
нас(ナス)は「我々・私たち」という1人称複数の人称代名詞мы(ムィ)の対格形という変化した形だ。

ロシア語では、日本語で言う「て・に・を・は」の関係を表すのに名詞や人称・指示代名詞そのものが格変化したり、前置詞と組み合わせて表現されるが、使用される前置詞により後続の名詞が要求される格変化をする。
 この場合наが対格を要求するので、мынасと変化したわけである。

 なおсмотреть наは「~を見る」という表現の慣用フレーズである。

当時まだ東西対立の時代で、ソ連はいうまでもなく社会主義体制下にあった。だからнародという語に「人民」というコンセプトで対応しがちである。

 話をもとのイロッポイ状況に戻そう。途中の過程は省略して、夕闇迫る人気の殆ど無いスタジアムの観客席で愛の語らいという展開。激情に駆られてその彼女を抱き寄せようとしたとき、

 Не надо,народ смотрит на нас!

である。
 補足的に、не надо(ニェ・ナーダ)というのは本来「要らない」という意味だが、男性が女性に行動を起こしたシチュエーションでは、女性側の拒否を意味する。
 したがって、これは「不要です。人民が私たちを見ています」ではなく、「ダメよ、見えるわ」ということになる。
 その後のことはご想像に任せることにしよう...

この記事の著作者:西下外語 @ 23:59    

 
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2006/03/20

外国語というもの:「やさしい」と「むずかしい」について

 言語を一通り使えるようになるまで習得するというのは、決してやさしいことではない。それは外国語だけではなく、自国語も含めてだ。今ここで、この記事をご覧になっている方は私も含めて大多数日本語が母国語という前提で話を進めるが、「日本語ならなんとかなる。外国語は難しい。日本人だから日本語が出来るのは当たり前だ」という意見を良く耳にする。
 しかしこれは違うのである。「日本人だから日本語が出来るということをよく考えてみよう。日本人の両親から、日本という国で生まれれば自動的に日本語能力が遺伝されるわけではないのである。人によって個人差があるが、言語活動は大体2才頃から始まるといわれる。
 しかし、それ以前からも主として親の言動を模倣する形で学習を開始している。以後は簡単な意思疎通と相手意思の理解ということを繰り返し行うことによって形成されていく。やがて幼稚園から学校というように集団生活を体験するにつれて、吸収する情報量も表現するチャンスも飛躍的に拡大する。さらに映画やマスメディア、読書などからの知識、学校での勉強を通じ平均して20才頃までに言語能力が一応完成する。
 日本で生活している限り「日本語」の環境が普遍的にあるのだから普通はあまり意識的な努力をしていないように感じるが、実は気が遠くなるように大変な学習活動と反復練習の末に日本語能力を身に着けているのである。言うまでも無くそれ以後も「日本語の勉強」は、果てしなく続く。
 外国語の習得も、原理は全く同じでこの過程を行えばよいことになる。日本では特にそうだが、ごく稀に生まれた時から2つ以上の言語形成環境に恵まれているケースもある。 しかし、多くの場合母国語となる言語能力の基盤がある程度できてから外国語の学習をスタートするのが普通である。その国の事情や教育制度などによって少しずつ異なるが大体中学生頃から始め、さらに必要に応じてそれ以外の外国語(大学における第二外国語なども含む)にかかることになり、当たり前のことだがその間、当人は同時進行で心身が成長している。
 ここで表題に戻るが、ゼロの状態つまり赤チャンに自分を戻すことが、まず「むずかしい」。特に、発音については人間の習性的な部分で、どうしてもそれまで身に着けた「慣れた」もので近似する傾向がある。その結果、正確な音韻体系が形成されないことが多い。
 外国語能力の指標として、発音さえキレイで正確ならそれでよいということは無論ありえない。しかし、構成要素として語句,文法などは途中でいくらでも矯正が利くが、発音のような肉体的反射みたいなものは時間が経つほど直りにくく、ナマッタまま固定されがちなのである。
 音声学や音韻論といった領域に深入りするつもりはないが、分りやすい簡単な例を挙げてみる。日本でいちばん身近な外国語は言うまでも無く英語だが、日本語の「はい」はなんと言いますかに対してYes(イエス)、これはまあいい。
 問題はその反対の「いいえ」である。英語の素養があまり無い、たいていの日本人はNo(ノー)と答えるが、私がもし初歩学習者を指導する立場ならここでマッタをかけるところだ。音韻体系の相違というまでも無く、英語なら強いてカナ表示すれば「ノゥ」となる。難しく言えば二重母音ということになる。
 ところが日本語の音韻体系にはこの区分は無く、短母音と長母音を区別するだけである。したがって英語のNoに対しては「ノゥ」とはならず長母音の「ノー」として認識、つまり置き換えているのである。
 そしてこれは、日英両語それぞれの音韻の特徴といえる。では英語のNoの正確な発音が、日本語で「ノー」というより特別「むずかしい」のかというと、そんなことはない。
 要するに「慣れていない」だけなのだ。結局、人間は「慣れた」ものは「やさしい」、「慣れない」ものを「むずかしい」と感じるわけである。
 はじめに戻って、自分にとって異なる体系を持つ未知の分野である「外国語」を習得することは楽ではない。しかし、「むずかしい」・「やさしい」といってもそれは所詮比較の問題であり、オリンピックで金メダルを取るようなことは誰でもできる「やさしい」ことではないが、外国語学習は決して「むずかしい」ことでもない。なぜならアナタはすでに十分「日本語」ができるでしょ・・

この記事の著作者:西下外語 @ 13:53    

 
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