珍獣、人民飛機服務員に手を出す
Народ смотрит на насの話
昨年開催された愛知万博に先立つこと30数年前、大阪万博の年のことである。当時、ある会社でソ連(現在のロシア)との貿易の仕事に従事していた私は、初めての海外出張でシベリア極東部の都市ハバロフスクへ行くことになった。
大学卒業から3年ほど経った頃で適当に会社の仕事にも慣れ、ロシア語も国内で必要とする程度は使っていた。しかし実戦経験は乏しい上に、何しろ若かった。
未だにその傾向があるようだが、少なくても私は決してまじめ・勤勉なタイプではなく、その反対のヤンチャでオッチョコチョイという行動体系を持っている。本来なら学校や入社後身に着けた多少のキャリアを駆使・発揮してハリキルべきなのだが、実際には開放感と好奇心のとりこになり、本当のところ仕事は殆どソッチノケで海外生活を楽しんだわけだ。
当時まだ日本とハバロフスクを直行で結ぶ定期航空便はなかたのだが、大阪万博来場にソ連国内からやシベリア経由で来日する欧州人客などのために会場に近い大阪(伊丹)空港へ特別のチャーター便を就航させていた。その帰りの便を利用して目的地のハバロフスクへ向かったのである。
まず、オッチョコチョイの性格が頭をもたげ、機内で担当のロシア人スチュアーデス(今ではキャビン・アテンダントと呼ぶ)に手を出してしまい、しかし驚いたことに現地でのデートの約束にまでこぎついた。
珍獣がそんなにモテる訳はないのだが、当時のソ連では西欧を含め日本人に対して潜在的にある種のアコガレを持っていた。それになんといっても若かった(?)
現在の珍獣からは想像もつかないだろうが、時には同嬢の親戚のアパートに招待され、町の花屋で5ルーブル(3000円ぐらいに相当)出して花束を買って進呈、おじさんに当たる人物がアムール川(中国名「黒竜江」)で釣ったコイのバター炒めの手料理を楽しむという幸せなひと時を味わい、やや誇張していえばロマンチックな映画の一場面のような思い出もある。
また、仕事場である見本市の会場へ先方から訪ねてきたこともあった。
こうして交際が親密度を増し、終に二人でデートということに...
表題のロシア語はその時のことである。この文章そのものは、極めて初歩のロシア語学習者にも容易に理解できるが、ここでロシア語になじみの無い方のため一通りの基本的説明をしておく。
Народ смотрит на нас(ナロート・スモートリト・ナ・ナス:不本意ながら便宜的にカナで発音を記す)
は、「人民が私たちを見ている」となる。
もう少し細かく解説すると、
народ(ナロート)は不特定多数の人の集合体で英語で言えばpeopleにあたる。
смотрит(スモートリト)は「見る」という意味の動詞смотреть(スマトリェーチ)の3人称単数現在形。
на(ナ)は「~の上に」という意味で多く使われ場所をあらわす前置詞。
нас(ナス)は「我々・私たち」という1人称複数の人称代名詞мы(ムィ)の対格形という変化した形だ。
ロシア語では、日本語で言う「て・に・を・は」の関係を表すのに名詞や人称・指示代名詞そのものが格変化したり、前置詞と組み合わせて表現されるが、使用される前置詞により後続の名詞が要求される格変化をする。
この場合наが対格を要求するので、мыがнасと変化したわけである。
なおсмотреть наは「~を見る」という表現の慣用フレーズである。
当時まだ東西対立の時代で、ソ連はいうまでもなく社会主義体制下にあった。だからнародという語に「人民」というコンセプトで対応しがちである。
話をもとのイロッポイ状況に戻そう。途中の過程は省略して、夕闇迫る人気の殆ど無いスタジアムの観客席で愛の語らいという展開。激情に駆られてその彼女を抱き寄せようとしたとき、
Не надо,народ смотрит на нас!
である。
補足的に、не надо(ニェ・ナーダ)というのは本来「要らない」という意味だが、男性が女性に行動を起こしたシチュエーションでは、女性側の拒否を意味する。
したがって、これは「不要です。人民が私たちを見ています」ではなく、「ダメよ、見えるわ」ということになる。
その後のことはご想像に任せることにしよう...
この記事の著作者:西下外語 @ 23:59
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